Doctor Mからのメッセージ#100 (2016.12)
私の既往歴と現病歴を書いておきましょうか
私は、このシリーズの0号で「病気のことは患者さんに一番教わった」と書きました。その通りで、それ故、自分がかかった病気が一番勉強になっています。それは、症状の微妙な実態や治療や療養の成り行きの実際が体感できたからです。あくまで、限られた特殊例かもしれませんが、自分の整理のためにも以下に少し詳しく書いてみます。
終戦の1年後の世相の中で大阪市で生まれたが、生下時の体重は五百匁なかったという未熟児で、歯の生えるのも、歩くのも他人の数倍以上遅れたそうだ。ずっと「痩せ」であだ名は「キュウリ」。体重は、徐々に増えてきて、やっと現在は標準体重となった。現在は、筋肉が衰えて脂肪が増えすぎているはずなので、是正のつもりである。
4歳の時に肺結核になった。近所の小父さんが感染源だと母親に教えてもらった。僕は小父さんの娘と友達だったらしく、その家に何度も遊びに行った。その子の面影は全然覚えていないけど、肺結核で布団に寝ていた小父さんの景色は記憶にある。小父さんは、僕の発症の直後に病死した。それまで、お母さんが夫の結核を近所に隠していたが、死んだので周囲の知るところとなった。僕の病気の発見は、右の鎖骨上窩リンパ節の腫大だった。近くの外科病院でそれを摘出した。その時の手術室の雰囲気と局所麻酔以後の経過と「アッ、これは結核だ」と医師が発した時の「アッ」というのを覚えている。この頃は、記憶が良くて賢い子供だったと思う。レントゲンを撮ったら、両側の肺尖に病変が見つかったとのことだった。
ヒドラ・パス・ストマイの3剤投与で運よく治ったが、肺の異常陰影は残ってしまった。特効薬のストマイは父親が進駐軍から手を回して買ってくれたと、長姉が言っている。今の自分の知識からすると、実際は、その後、数年で治っていたと思うが、学校検診に係わる医師の無責任さ(と私は思っている)のお蔭で、小学校入学は1年延期され、入学してからも1年半は「自宅学習」を命じられた。その後も、高校の卒業まで体育は禁止された。この間ずっと、学校の外では走り回っていた。大学の入学検診の時に、「こんな陰影は治ってしまった後だ」と説明され、そのことが明確になった。そういう経緯で、結核の医者は嫌いだった。ところが、巡りあわせの妙で、たまたま入局したところは肺結核と肺がんが主な対象である呼吸器外科だった。
ストマイという筋肉注射の副作用(第8脳神経障害)のお蔭で、小学生高学年から、強い耳鳴りを自覚するようになった。慢性の耳鳴により軽度の難聴を自覚している。難聴は現在でも仕事上で明らかな不都合があるが、他人にはそれとは判らない程度でもある。これらは一生治らない。成人になってから、眩暈も一寸したことで生じる体質になった。今からすると、子供に対する薬剤使用量が過大であったことは明らかだと思うが、これについては、仕方がないことだと納得している。むしろ、この薬剤を使ってもらって「命拾い」をしたと思っている。小児結核の他は、最近まで、幸いにして「本格的な病気」には罹らなかった。
幼少時にはしばしば虫歯に罹患して、拷問のような痛い治療を受けることが数回あった。その時代の治療を知っている者にとっては,現在の歯科治療は極楽のようだ。また、幼少時は、「鼻炎」が慢性的で、「口呼吸」をしており、「阿呆」のような表情になっていたようだ。
大学で体育解禁になり、本格的なスポーツをしたいという長年の夢に従って、医学部内のサッカー部に入った。全くに素人なので、練習は自分にはきつかった。ただ、俊足を生かそうと思った。5年生の夏合宿の時にヘディングをしようとして「ぎっくり腰」を起こし、強い痛みのために合宿所に数日寝ていたが治らないので、動くのも痛いけれども何とか大学の整形外科外来に受診した。長いこと待たされている間に、長椅子に坐りながら眠ってしまった。名前を呼ばれて目が覚めると、体がずり落ちそうになって、痛い腰が椅子の前の角に当たるような「海老そり」の姿勢になっていた。診察室に入った時は、ひどかった痛みが消失していた。医学部生高学年の自分としては「恥」をかいたが、治って良かった。その姿勢の荒療法(寝ているので判らなかったが)が著効をもたらしたようだ。
しかし、それ以後、両側の坐骨神経痛が生じることがある。加齢に伴って、一寸した姿勢の不摂生などにより、毎年のように軽度の坐骨神経痛を感じるが、様子をみているだけで良くなるので、検査や治療はしていない。胸腰の脊椎のレントゲン写真は大きい変化はない。
同じ頃、下肢に一寸した怪我をした夜にビールを飲んでいたら、傷の所から上行性に赤い筋が成長してくるのが見えた。不勉強の私は慌てて、深夜の夜間病院の外来に行ったら、出てきた医者が自分と同じくらいの年齢の者で、頼りなさそうに見えて肩透かしの気持ちになった。しかし、それは怪我をしたのにアルコールを飲んだからリンパ管炎が生じただけのことで、彼の処方した抗生剤と抗炎症剤は適正な対応だったことは後で判った。夜間に慌てて病院に行って、昼間と同じ対応を期待する自分が悪いということは、この時に勉強した。また、この時の受診以後、歯科受診は別として、自分の病気で受診したことは幸いにして一度もない。全ては自分で対処している。
34歳の時に米国留学していた時に、頸部の激痛が生じて、話をしても響くくらいにひどかった。原因は不明だった(「寝違い」だったのかも入れない)。病院に行こうとは思わなかった。その時に、たまたま板チョコレートが置いてあったので、一枚全部食べてしまったら、ひどい下痢になった。そのチョコレートは便秘治療薬の10錠分だった。味は正に「チョコレート」だった(日本では、こんな紛らわしいものはないが、ワイフが当地で買い置きしておいたものだった)。頸の激痛の時での下痢は「本当に辛かった」。激痛は数日で良くなった。
36歳の頃に、自宅のトイレで排尿すると、茶褐色の尿だったので、「ワッ」と驚いたのだが、頭が真っ白になり咄嗟に水洗ノブを押してしまったので、尿検査用のサンプルを保存できなかった。直ぐに、本を調べたところ、「行軍性血尿」なので心配ないだろうと自己診断した。その日の昼間は長い距離をランニングしていた。その後、57歳の時にも茶褐色の尿が出たことがあった。やはり、昼間に走っていた。この時は2回目だったので慌てなかったが、面倒臭いからサンプルを採らなかった。ただ、翌日と翌々日とで職場で検尿検査をしたところ、それぞれ(2+)と(±)だった。翌々日には肉眼的には普通色だった。どちらの場合も再発しなかったので、精密検査などはせず、そのままで終わった。
やはり、36歳頃に不整脈が出だした。特に、趣味のジョギングをしている時に「動悸」として感じるので心配になった。不整脈は「期外収縮」というパターンだったが、循環器科への受診はしなかった。案外、自分のことには放置しながら経過観察することがほとんどだった。この頃は、「病気は自分で良く知っているから」ではなく、単に「面倒臭い」からだった。ただ、この時に大学生時代から吸い出していた煙草を15年ぶりに止めることができた。やはり、不整脈による動悸に不安感を持ったからだ。肺がんや肺気腫を扱う医者になって、「煙草は怖いことになる」という実例を目の当たりにしても、止められなかったのに、この時の禁煙は容易だった。禁煙した後で(たまたまかもしれないが)動悸は収まった。その後、現在に至るまで、この不整脈は何年もなかったり、散発する時期があったりの繰り返しだ。
喫煙については、その後また数回吸い始めたり、また止めたりを繰り返したが、その度に本数が増えて、最後は20本以上になった。開業する際に、また止めることが出来た(かかりつけ医として、人様に禁煙の指導をしないといけないので)。その後、若干期間において数回は禁煙を破っているが、また長い年月禁煙を続けたりして、数年前までの数年間は、1~2週間に1回くらい1箱買ったりする程度で吸うことがあった。つまり、毎日は吸わず、気が向いた時に吸うというものだった。この一年は吸っていない(先日1日だけ、もらい煙草を3本もらった)。最近の数年はそうでもないが、私においては、「禁煙」は決心があれば比較的に容易だが、「節煙」は非常に意志の強さが必要なので難しいと思う。
ただ、私は早くから禁煙したいのが本心なので、個人的には日本で煙草を販売してほしくないと思い続けてきた。煙草の味は他に代わるものがないので、一旦その味を覚えてしまうと意志が弱い人間には止めにくい。最初は美味しくないはずなので、最初から絶対に手を出さないのが正解だ。一方、本当に止めようという気になったら、禁煙補助剤などを使うまでもなく、簡単に止めることができる場合が結構あるのではないかと思う。軽い気持ちで、補助剤を用いて楽に止めようとするのは難しいと思う。止める決心が本気かどうかがキーポイントかなと思う。
私の体質としては、前述の「耳鳴・眩暈と軽度の難聴」は別にして、一生のほとんどに亘って、「眠気症」「疲れやすい」「根気がない」「胃腸炎を起こしやすい」で困ることがある。後者は時々で、その時の問題だけで済む。「眩暈」「吐気」「胃腸炎」については自分に対する処方内容はもう決まっているので、直ちに服薬することにしている。前三者は他人の目からは(特に、ワイフからは)「気がたるんでいる」ということだが、これらが生活の質を非常に落としているのは確かだ。なお、「疲れやすい」というのは、「読み書き」や「家事の手伝い」や「子育ての分担」や「ワイフの買い物の同伴」の時に著しくて、「運動」はしんどくても頑張れるので、私は運動以外は本質的に嫌いなのかもしれない。意識としては、「僕は勉強や学問は好きだ」と思っていても、身体の方が正直なのだろう。
加えて、中学生一年の時から記憶力に問題を覚えることが出てきたことと(特に、記銘力)、授業中に居眠りをする常習犯になってしまった。この二つの不都合は今に至るまで続いていて、仕事にも実は支障がある。難聴がひどくなってきた頃とタイミングが合っている。ストレプトマイシンによる第8脳神経以外の神経障害もないとは言えないような気がする。
それと、50才頃からか、毎年冬になると皮膚搔痒症が出てくる。このことで、「ああ、冬が来た」と季節を感じる。特に、大腿前面に著明だ。入浴中と風呂上りに著明だ。かなり嫌な症状だが、面倒臭いので放置しているが、時に抗ヒスタミン剤の塗薬を付ける。もともと若い頃から、腹と腰の辺りが痒いことが多く、アレルギー体質のようだ。
その他に、高所恐怖症と閉所恐怖症がある。高所恐怖症は常にそうであって、九重山や綾町の釣り橋の数分の一の長さのものでも渡ることはできない。腰が落ちてしまう。閉所恐怖症は、そういう状況であることに気が付くと起こることがある。高所恐怖症でも閉所恐怖症でも反応として「脱力」が生じるので、車の運転は危険となる。先ずは、循環や呼吸がおかしくなってくる。「パニック症候群」の状況である。今では、ある程度の長いトンネルは走ることができない。以前は、中部地方の非常に長い伊那トンネルも特に何の恐怖もなく走ることができたのだが、ある場所での強い不安感の「感作」を重ねることによって病気になってしまった。その場所は、まだ対面交通であった頃の九州縦貫自動車道の加久藤トンネルの辺りの連続トンネルだ。残りの人生の間に、「脱感作」のトライアルをしようかなとも思っている。
40才過ぎで、兵庫医大というところで、肺外科の責任者であった時に、左肩から上肢にかけて厳しい疼痛が数か月続いた。毎日が苦痛で目途も経たず、指の知覚も鈍ってきて、手術中にピンセットを床に落としたりするようになった。そこで、大学の整形外科と脳神経外科でMRIなども含めて検査をしてもらった。しかし、特に病気らしいものはなかったので、それは「ホッと」した。鎮痛剤がどの程度の効果があったのかは、覚えていないが、そのうちに良くなった。その時の検査で、頚椎の変形が一か所あって、僅かに脊柱管が狭い部位があった。自分のこういう画像を見るのは本当に嫌なものだが、この所見が症状の原因かどうかは、判らないと思われた。こういう所見を見て、サッカーでのヘディングはリスクがあるかもしれないと思った。開業してから直ぐにシニアサッカークラブに入れてもらって、数年前まではずっと頑張ってきたが、ヘディングは試合中では、せざるを得ない場面ではせざるを得ないという状況になっている。運を信じて。その後も、この多分、頚肩腕症候群という症状は、軽重含めて毎年のように起こっている。その契機の多くは「運動」ではなく、「変な姿勢で横になっていたこと」である。鎮痛剤を飲みながら、愛護的な生活をするとそのうちに治る。
開業してから何度かの軽い怪我をしている。左右の足の小趾の末節骨は骨折をしているが、サッカーをしているうちに疲労骨折的になっていることで、これは特別の処置は不要だった。膝を傷めたり、大腿のハムストリングスやアキレス腱を数回以上負傷して困ることがあったが、この時に膝の装具が膝の保護に有効で、運動リハビリの補助具として素晴らしいことに気付いた。その経験から老人や婦人の変形性膝関節症のリハビリに積極的にお勧めしてきた(56号参照)。
52歳の時に右足の母趾の基節骨に圧迫骨折があって、これは相当痛かった。家の中で子供に腹を立てて、床に置いてあったランドセルを蹴ったのだ。予想以上に本がいっぱい詰まっていたので、骨折したのだった。踵歩きをしておけば生活が出来たので、放置して治した。自院でのレントゲン写真では、5mm程趾が短くなっていたが、かえって靴とのフィッティングが良くなったように思う。
49歳の時に、右の小指に突き指をして、末節骨の基部に小剥離骨折を起こした。町内のソフトボール大会で、ボールを受ける際に負傷した。若い頃は軟球での球に慣れていたので、それより大きいので勘が狂ったのだった。ちょうど伸筋の付着部の骨片が剝がれたので、整形外科で処置か手術をしないと指の変形が残ってしまうことが判った(Mallet finger)。しかし、痛いことは嫌なので整形外科に行かずにそのまま放置して治した。ところが、その7年後に右の薬指に同じパターンの骨折があった。これは、ワイフと取っ組み合いをした結果、腕力に勝る相手にへし折られたものだ。「君は外科医の指に何ということをするのだ」と言ったらしい。この時も放置したので、変形が残ったままで治っている。小指や薬指だったので、多少の変形では日常生活への不都合はほとんどなかった。
私はマスターズ陸上競技もやっていて、59歳から練習をし始めた。すると60歳になって左坐骨結節部に有痛性の硬結が生じて、当院の理学療法士の治療を受けたが半年以上治らなかった。彼と一緒に調べたところ、坐骨結節滑液包炎(ハムストリングス症候群)との記載があった。いずれにせよ、運動で生じた損傷は手術をする程のものでない場合は、基本的には「時間薬」であって、筋力を低下しない範囲のリハビリやトレーニングをする他の妙手はないと思う。67歳時にマスターズ陸上の百米走のゴール手前で、左大腿ハムストリングスがブッチーンと切れて路面にもんどりうって転がってしまった。激痛で一歩も歩けずに、その場から他の選手に背負ってもらって医務室に行き、2時間くらいの初期冷却の治療をしてもらった。その後は、辛うじて駐車場に置いてある車を運転できたので、ドラッグストアによってサポーターなどを買って帰宅した。これも自然経過で治した。ただし、左大腿ばかりやられるので、完璧なリハビリが出来ていなかった、筋力の低下、ストレッチ練習不足、などの問題が慢性にあるようだ。
64歳の時についに面倒なことになった。今まで期外収縮(主に心房性)の出没があったが、不快で困ることはあったが、深刻には考えていなかった。しかし、発作性心房細動が初めて心電図で引っかかって、深刻な話になった。自覚的にも期外収縮に比べて、より不整脈感が強かった。この不整脈は脳血栓塞栓症の最も重要な危険因子で、ガイドライン上では抗凝固剤を予防投与することになっている。通常は一生続けることになる。この疾患については相当数の患者さんを扱ってきた経験もあるし、循環器科専門医にチェックを受けたことも何度かあった。自分の場合は、今まで、何回も発作が再発しているが、抗不整脈剤を服用し出すと数日以内に消失する繰り返しだった。発作が緩解した時点で、自己責任で抗凝固剤は服用中止とするオプションを選択している。
昨年の69歳になった年は、冬からのアレルギー性鼻炎に引き続いて、初めて明確な咳喘息が自分にも出現してインパクトを受けた。これは特に私の得意分野だった(20号・90号参照)。さらに、5月から8月まで心房期外収縮が続くようになったことで、この間は抗不整脈剤を服用した。この間に発作性心房細動も再発した。
さらに、今年の70歳になった年は最悪の年だった。3月に咳喘息が再発したが、内服の副腎皮質ホルモン剤と吸入ステロイド剤を含む最強の薬剤を用いた。それでも、仕事に支障が出る程だったので、プレドニン錠(5mg)内服を一時は例外的に6錠までに強化した。3ケ月ほどでかなり改善した。この間は心房期外収縮の頻発も重なり、具合が悪かった。時々の心房期外収縮に加えて、8月には旅行の最中に心房細動が生じた。うっかりして薬を持って行かなかったので、抗凝固剤と抗不整脈剤は帰宅した2日後に服用開始した。次第に難治性のようになる傾向で、先行き不安になってきたが、幸いなことに数日後には整脈に戻った。しかしその後も、期外収縮という不整脈は出たり出なかったりだった。
この年の11月には、これに加えて左肋間神経痛の後で帯状疱疹が出現して、抗ウイルス剤の服用を行った。その後は、全般的に落ち着いてきたが、先日の12月の忘年会の朝から心房細動が再発した。この一年は不整脈防止目的で、禁煙だけでなく、完全に禁酒を続けていたが、夕方の忘年会の時には、ヤケクソ的な感じでビールや赤ワインを飲んでしまった。ずっと心房細動だったが、最後の挨拶をしゃべったりした後で、整脈に戻っていることに気付いた。そうすると、そのまま二次会にも参加して、赤ワインを飲みながら、長らく吸っていなかったもらい煙草を3本吸っておいた。それでも、心房細動の再発は起こらず、心房期外収縮もまれにしか感じなくなっている。(➜当院を退職して二ヶ月になるが、動悸の再発はまだない)
また、かなりの種類の抗不整脈剤を試みたが、不整脈の停止や再発防止に確実な薬剤は見付からなかった。それ故、不整脈に対する当面の方針は、比較的規則正しい生活ということに落ち着いている。そして心房細動が生じたら、その期間中だけ少なくとも抗凝固剤を服用することにしている。こういう不整脈は無自覚の場合も結構あるのだが、自分の場合は出現すると必ず自覚する。これは気分的には不都合極まりないのだが、他方で出没の状況が把握できるので、そういうオプションが適切だと判断している。今後、不整脈が常態化すると耐運動能が損なわれるし、不整脈中の運動は何某かのリスクを伴う可能性があるので、スポーツを断念せねばならないかもしれない。これはなるだけ避けたい事態である。カテーテル焼灼術のことは、まだ本気では考えていない。
この2年間の体調不良の原因を推定するに、もちろん飲酒が不整脈の誘因になった感じのこともあったが、一番の因子は診療による疲労(この数年は診療による疲労が耐えがたくなってきた)と不規則な睡眠(睡眠不足)であろうという結論としている。以前から夜更かしタイプではあったが、最近の数年以上は完全な不眠症であり、そろそろ睡眠剤を服用し出そうか、もう少し非薬物的な工夫をトライしてみるかを考えだしていたところだ。
私の睡眠障害は入眠障害のパターンで、その大きい要因は「腰のイライラ症」というものと思われる。この症状は、プリンペラン注という制吐剤を点滴注入した時の副作用で生じる場合がある症状と同じだと思った。当院の患者さんの何人かに、点滴中にこの症状が出て混乱したことがあった。その後、自分の嘔気症の時に、自分の診療所でこの点滴をしてもらったらその症状が出現して、直ぐに点滴を抜いてもらったことがあった。ただ、プリンペラン錠の内服ではこの副作用に気付いていない。この弱い症状が夜間の臥床時に自然に起こりやすくなっていると思われる。プリンペランの薬剤説明書の副作用欄に、以前には長らく「焦燥感」というのが記載されていた。この用語は心理的な用語であり、この症状には適切なものではないが、製薬会社がよく理解せずに書いているのだろうと思っていた。別に、気持ちが「イライラ」しているのではなくて、腰が「イライラ」するのである。患者さんの副作用の時の事後聞き取りでもそういうことだった。ただ、最近この説明書を見直したところ、「じっとできない・そわそわ感」という用語に訂正してあった。いずれにしても、中枢神経や末梢神経ないし自律神経の変調があるのだろうと思っている。この症状についてと、その対処については、精神科か神経内科の先生に教えを乞うのが良いのかなと思い始めている。
最後に、癌の検診については、結果的に毎年のように撮っている胸部レントゲン写真のみだ。1回だけ当院で胃カメラをしてもらった。大腸カメラと腹部超音波はまだしていない。腹部超音波は一度してもらおうかと思っている。もちろん、これらは毎年する方が良いことは判っている。調べたことはないが、医師というのは、自分の検診はあまりしていない人が少なくないような気がする。「医者の不養生」。
以上、患者の皆さんの心身の秘密を教えていただいたお返しに、私の身体の状態をお示ししました。主治医が、自分に対してはどういう対応したかが判って、興味深いのではないかと思います。私も、書いているうちに整理が出来ました。
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