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Doctor Mからのメッセージ#097 (2016.07)
        

食べられなくなったらいよいよ最後かなと、老衰のような場合は

平成14年、入院中の97歳の男性が、昼間に意識を失いました。心電図で完全房室ブロックでした。意識回復した後で直ちにペースメーカーの植え込みを専門科に依頼しました。超高齢でしたが、非常に元気な方だったので、家族と話し合いで、私としては例外的にそうしました。なお、この方は、99歳の時に、ラクナ梗塞と思われる症状で、再入院がありました。けいれん発作とロレツが回りにくい症状でした。基幹病院にはお世話になりませんでした。頭部CTでは異常なく、症状は良くなりましたが、軽い肺炎を起こしました。そのうちに食事を摂らなくなり、今度は自然経過のうちに、一か月半で看取りとなりました。市役所の職員が百歳の祝いに来院する前日は、ご本人が緊張してソワソワしていましたが、お祝いをもらってほどなくして、穏やかに亡くなられた。前日まで甘酒を楽しまれました。
 
 
10数年位前からでしたか、食事が出来なくなった老人に「積極的に」「胃瘻」造設をして十分な栄養投与で管理することがブームのようになりました。食べられなくなった状態や低栄養が問題の患者さんには以前は、「IVH」といって中心静脈から持続的な高栄養輸液をすることが多かったのです。他に問題がなければ、「永遠に」管理ができる可能性があります。これは、一つの「スパゲッティー状況」であるし、重大な感染を起こさないように定期的に穿刺し直すことが必要でした。一方、胃瘻から栄養を注入するのは「IVH」に比べると利点があります。つまり、栄養を胃に一日数回だけの注入で生理的に近いこと、造設術は一般に簡単・安全で、一度造設すると永続するし、苦痛はほとんどないのです。ところが、これにより本来なら大往生する高齢者が亡くなる機会を失するようになったとも言えます。

 一時的な原因で食事が出来ない場合に胃瘻でしばらく栄養維持をする場合は、状況が良くなれば胃瘻を閉鎖して通常の経口食事ができるので、そういう場合は積極的に考えることは素晴らしいことだと思います。ところが、精神状態も最早しっかりしない高齢者が、食事を摂れなくなった場合にも胃瘻を無自覚的にしようとする「流れ」がありました。小生は、その当初から「反対」でした。そもそも歳を取って食事を摂ろうとしなくなったら、大往生じゃあないかということです。生物学的にも哲学的にも、食べるという能力は人の存在と裏腹であると思います。最近になって、その「流れ」は反省期に転換してきているらしく、今頃になって偉そうにそういうアナウンスメントをするその領域の医師がおられますが、当初の想像力や哲学が足りなかったのではないかを反省してもらいたいと思います。

 当院では、入院管理中の高齢者がじり貧的に食事摂取が出来なくなると、家族と話し合ったうえで、「食べなくなるのが命の限界と考えましょう。当院では胃瘻は致しません」を随分前からの方針にしております。それに同意されない家族の場合は、ちゃんと別の病院に紹介します。当院での結末はどうかといいますと、①そのまま静かな大往生となる、②予想外に、また食べ始めることがある、の二通りがあります(99号参照)。結果的に②になったケースでは、早々に胃瘻をしていたら、「自然に食べ始める」というチャンスをなくします。

 84歳男性は慢性に譫妄のある認知症の方です。平成25年、肺結核症が発症して専門病院に治療をお願いしました。3か月入院で排菌がなくなり、当院に転入院となりました。1か月前に胃瘻栄養が開始されていました。当院への入院半年後に胃瘻閉鎖しましたが、デイルームで座って食事をする時間が一番幸福であるように見受けました誤嚥性肺炎のリスクをゼロにしようという対応を考え直した結果でした。それから1年間、ずっと食欲良好でパクパク食して、ある日デイルームで昼食を10割摂取された午後にスーっと亡くなられました。


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