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Doctor Mからのメッセージ#046                     (2005.1)
                   代替療法というものの意味

 代替療法というのは、ある疾患に対してのある時点での医学的に標準と認められた治療法以外の治療法ということでしょう。前号の商法という意味合いはこの号では抜きにして、真面目な試みとしての代替療法についての話です。普通は医師以外の者が主導するものと思われますが、同様の範疇のことは、後で述べますように、医師も生活療法とか補助療法ということで取り入れており、医師以外が行なうものとも言い切れないと思います。結論から述べますと、代替療法というのは、その時点で充分有効な治療法がまだ見つかっていないということの裏返しに過ぎないと言い得ると思います。代替療法の効果は、それが真面目な試みであっても、不確実なものです。効くような場合もあるし、そうでないような場合もあり、その予測はしばしばやってみないと判らないというものです。何故そういう消極的な書き方をするかと言いますと、もしそれが確実なものなら、代替療法でなくそれは標準療法になっているはずだからです。

 小生は4歳の時に小児結核になり、何年もずっと自宅にて臥床するように指導されていました。何ヶ月ぶりかで近所の開業医に受診したら、その医師は思わす「あっ、生きとったんか!」と叫んだそうです。その先生からは常に「大気・安静・栄養」の指導を受けていたことは子供の記憶にもしっかり残っています。小学校も直ぐには進めず、1年遅れで入学してからも直ぐに休学になり(その根拠は不明で、怪しい)、サナトリウムへの転校を勧められたこともありました。外に出る時は直射日光に当たってはいけないと指導されたので、大きい麦わら帽子を被らされました。しかし発病の頃、パス・ヒドラの内服薬が使用され始め、特にストマイ注射が闇のルートが最初でしたが手に入り出して、それで命拾いしたかも知れません。しかし、ストマイの副作用で幼少時から耳鳴りに悩まされ、気付いたら多少難聴になっており、これらは一生治りません。つまり、小生は「大気・安静・栄養」と「PAS・INH・SM」との過渡期に結核になり、両方の指導と治療を受けたのです。より強力な薬物がある現在からしますとですが、あの「大気・安静・栄養」という生活指導はどれ程の意味があったのか、本当に直射日光から身を守らなければならなかったのかという思いがします。

 かなり最近の話としては、気管支喘息です。以前の結核のサナトリウムと同じく、難治喘息に対して海辺の病院での生活療法というのが知られるところでした。しかし、吸入ステロイドなどの普及により大多数の症例で良い管理ができるようになり、その役割は終えようとしているのではないでしょうか。似たようなアレルギー疾患のアトピー皮膚炎の難治例において、まだ生活療法が重視されているのは、充分で適切な薬物療法の目処が立ちにくいことの裏返しであると思います。そういう療法を苦心して指導する側も受ける側も、一面でそういう一般状況であることを敢えて冷静に受け容れておく必要があると思います。言っては悪いようですが、合理的な考えを失くして謂わば信仰のようになっている場があるような印象を受けた例があります。

 
こういうアレルギー疾患や膠原病のような難病も、薬物療法の進歩により、「代替療法的な指導」や「疾患友の会」の一部の存在意義が失われる時が早く到来することが待たれます。なかでも、なかなか目処が立ちにくく気の毒であると思えるのは下肢リンパ浮腫です。当院でも、拝見させて頂いて状況を教えて頂いた方が数人おられます。こういうのも、将来は幹細胞注射による再生医療が助け舟になるかも知れませんね。

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